ウイスキーについての理解を深めるために整理してみました。勉強途中ですので、参考として下さい。蒸溜所の数等も日々変化しております。適時修正して参ります。
歴史や文化を理解する目的で、一部、その歴史も踏まえて整理してみました。
蒸溜技術の出現から地域別のウイスキーの歴史に触れてみました。
■蒸溜技術の歴史
まずは、蒸溜が出来なければ、ウイスキーは造れないので、蒸溜技術について触れてみます。
蒸溜という技術について、古いものでは紀元前2000年頃のメソポタミアのバビロニア人が行っていた可能性が指摘されていますが、これは不確定です。最も初期の化学蒸留は西暦1世紀のアレクサンドリアの古代ギリシャ人によるものですが、これはアルコールの蒸留ではありません。一説に、最初の蒸留アルコールの精製は、8世紀から9世紀にかけて中東で行われたものとされています。その後、蒸留技術は、十字軍遠征を通して中世アラブ人から中世ラテン人に伝播し、12世紀初頭にラテン語で最も古い記録が残されています。
■アルコール蒸溜技術の歴史
蒸溜技術がウイスキーに応用された歴史について触れてみます。
アルコールの蒸留がいつから行われていたかには諸説ありますが、現代のルーツにつながる最古の記録は、13世紀のイタリアにおいて、神学者・哲学者であったラモン・リュイ(1232-1315年)による、ワインからアルコールを蒸留させたものです。ラモン・リュイは、神学者であり、その墓は、サン・フランシスコ修道院(パルマ・デ・マヨルカ)修道院にありますので、アルコールの蒸溜も修道院で行なわれたと推測されます。その技術は、中世の修道院に広がり、主に疝痛(せんつう)や天然痘の治療用の医療目的で利用されたものです。
●なぜ修道院は、躍起になってワインを造ったのでしょうか?
カトリックでは、パンとワインはとても大切です。最後の晩餐で、イエス・キリストが、「これは私の体である」として、弟子にパンを分け与え、「これは私の血である」として、ワインを分け与えました。このため、カトリックの典礼(祭儀)であるミサでは、ワインは欠かせないものになったのです。さらに中世の時代、修道院は、巡礼者の宿泊場所でもあり貧しい人や病気の人を受け入れる場所でもあったので、医療やおもてなしのためにも必要でした。カトリック教会は、パンとワインは聖別されると、実体変化を通じてキリストの体、血、魂、神性、つまりキリスト全体になると教えています。
●15世紀までにはアイルランドとスコットランドにも蒸留技術が伝播しますが、当初は当時の他のヨーロッパ地域と同じく、アルコール蒸留は薬用目的であり、ラテン語で「命の水(aqua vitae、アクア・ウィタエ)」と呼ばれました。その後、ゲール語やアイルランド語へ翻訳され、一部が訛って「ウイスキー」になりました。そして、蒸留技術は、当時の専門家集団である「Barber Surgeons」ギルドを介して修道院で行われるものから、一般社会でも行われる時代へと移り変わっていきました。「バーバーサージョン」とは、12世紀ごろから18世紀のヨーロッパに存在が確認される「理髪外科医(りはつげかい、英語: barber surgeon)」で、髪を切る理容師が人体を切る外科医の仕事を兼ねていた職業です。
■蒸溜器(蒸溜機)の種類
ついでなので、蒸溜器(蒸溜機)の種類について触れておきます。
①単式蒸溜器(ポットスチル)
モルトウイスキーは、「単式蒸溜器(ポットスチル)」で作られます。もろみを蒸溜するための銅製の釜のことで、毎回、中身を入れ替えるので「単式蒸溜器」と呼ばれています。もろみの状態(原料が発酵した状態)でのアルコール度数は7%程度ですが、これを蒸溜することで、65〜70%程度までアルコール度数が上がります。なお、実際に瓶詰めされる際には、加水により40度ほどに調整されるのが主流です。単式蒸溜では、アルコール以外の多くの成分も同時に蒸溜されるため、香味成分を多く含んだ個性の強い蒸溜酒になります。
②連続式蒸溜機(パテントスチル)
近代になって新たに開発されたのが「連続蒸溜機(パテントスチル)」です。連続蒸溜は、たとえるなら1回ずつ蒸溜するタイプの単式蒸溜器(ポットスチル)がいくつも並んでいるのが連続式蒸溜機です。連続的に蒸溜できることから、短期間で大量の蒸溜ができます。反面、単式蒸溜器で蒸溜するよりも雑味などが取り除かれ、原料の風味が残りにくくなります。そのため、アルコール度数90度前後の、すっきりクリアなスピリッツが生成されるのが特徴です。おもにグレーンウイスキーの製造に用いられる方式です。現在の連続式蒸溜機は低コストで大量生産できることに特化するように改良されたためです。現在の連続式蒸溜機は手間がかからない分、ウイスキー産業に大きく貢献しているといえます。世界で一番初めにグレーンウイスキーを作ったキャメロンブリッジ蒸溜所の創始者のいとこであったロバート・スタインが1826年に連続式蒸溜機を発明しました。モロミ塔、抽出塔、清溜塔、メチル塔の最低4塔から成る多塔式が一般的です。背の高い塔の内側は穴の空いたトレイで棚のように何段かに仕切られ、一つひとつの棚を通過するたびにアルコール成分が分離される仕組みになっています。
③カフェ式連続蒸溜機(カフェスチル)
●1832年にイーニアス・カフェが「カフェ式連続式蒸溜機」をつくりだしました。カフェ式連続蒸溜機の名前の由来は、発明した「イーニアス・カフェ」の人の名前からとったものです。コーヒーの「カフェ」とは無関係です。
一般的な連続式蒸溜機が複数の塔で形成されているのに対して、カフェ式連続蒸溜機は、モロミ塔と清溜塔の2つの塔から成ります。通常の連続式蒸溜機よりも塔が少ない分、蒸溜回数が減るため、スピリッツに原料由来の風味や成分が残りやすいのが特徴です。現在主流となっている連続式蒸溜機はアルコール精製度を高められる反面、香味成分までも除去してしまいます。
カフェ式連続蒸溜機は初期に作られた連続式蒸溜機であり、旧式で蒸溜効率は劣りますが、「カフェ式連続式蒸溜機」の蒸溜液には原料由来の香りや成分がしっかりと残ります。現在主流の連続式蒸溜機と比べて香味あふれるスピリッツを製造できることから、あえてカフェスチルを採用する蒸溜所もあります。しかし、現代的な連続式蒸溜機よりも操作が難しく、蒸溜効率も悪いため、世界的にカフェ式連続蒸溜機を使用する蒸溜所は少ない傾向にあります。
●竹鶴政孝がカフェ式連続蒸溜機にこだわった理由は、ブレンデッドウイスキーを重視していたからだといわれています。
1962年の購入当時、スコットランドでは連続式蒸溜機の改良が進み、2塔式のカフェ式連続蒸溜機はすでに希少な存在でした。しかし竹鶴は、本格的なブレンデッドウイスキーを造るには、香味豊かなグレーンウイスキーを製造できるカフェ式連続蒸溜機が不可欠だと考えていたのです。これには、自身がスコットランドのボーネス蒸溜所で研修を受けた際、カフェ式連続蒸溜機が採用されていたことも影響しているのかもしれません。竹鶴は、香味成分がしっかり残るグレーンウイスキーを伝統製法で生み出すため、あえて最新設備ではない旧式のカフェ式連続蒸溜機を導入し、「本物のおいしさ」をとことん追求することにこだわったのです。竹鶴は、1919年にロングモーン蒸溜所とボーネス蒸溜所(1926年閉鎖)で、1920年にヘーゼルバーン蒸溜所(現スプリングバンク蒸溜所)で学びました。
■ウイスキーの起源
ウイスキーの起源についてはアイルランド説とスコットランド説が古くから知られていますが、共に15世紀以前に根拠を求めるものは裏付けに乏しいのが現実です。
①アイルランドで最も早くにウィスキーについて言及される史料は、17世紀に成立した先史時代から1408年までのアイルランドの出来事を網羅した『クロンマクノイズ年代記』であり、1405年の首長の死因はクリスマスに「命の水(アクア・ヴィテ)を暴飲したからだ」とあります。
②一方、スコットランド説の場合は、スコットランド王室財務記録帳なるものに1494年に「王命により修道士ジョン・コーに8ボルのモルト(麦芽)を与えてアクアヴィテを造らしむ」(8ボルはボトル約500本分に相当)が最古の根拠であり、これは同時にウィスキーに関する最古の文献です。この修道士ジョン・コーが所属していたのがリンドーズ修道院であり、その修道院跡地で2017年に創業したのがリンドーズアビー蒸溜所です。曽祖父の代に手に入れたこの土地で代々農業を営んできた、創業者のドリュー・マッケンジー・スミス氏は、この場所がスコッチウイスキーにとって記念すべき場所である事を知り、蒸溜所の建設を決意しました。これにより、リンドーズアビー蒸溜所が、「スコッチウイスキー始まりの場所」と呼ばれることもあります。
■スコッチウイスキーの歴史
1506年、スコットランド王ジェームズ4世(1488年-1513年)がスコッチウイスキーを好むと伝えられると、ダンディーの町は当時の生産を独占していた「Barber Surgeons」ギルドの外科医からウイスキーを大量に購入しました。また1536年から1541年にかけて、イングランド王ヘンリー8世が修道院を解散すると、独立した修道士たちは自身の生活費を稼ぐためにウィスキーの製法を市井(しせい)に伝え、ウイスキーの生産は修道院から個人の家や農場へと移りました。
まだ製法が確立していなかったこの頃のウイスキーは、後述する密造時代に樽による熟成の技法が確立するまで、他の穀物原料の蒸留酒(スピリッツ)と同じく熟成させるものではありませんでした。現代に知られるものと比べ、色は無色透明で、味はドライかつ荒々しかったです(現代でいうニューポット)。
■スコッチモルトウイスキーの始まり
1707年、合同法によってイングランドとスコットランドが合併(グレートブリテン王国の成立)すると、スコットランドの蒸溜所に最初の課税が行われます。これはスコットランドの酒造に不公平な重税であり、以降、さらに様々な名目で税金は釣り上がっていっきます。
1725年のイギリス麦芽税が施行される頃には、スコットランドの蒸溜所のほとんどは廃業するか、地下に潜って密造するようになります(密造時代)。密造業者らは、政府の徴税官や取締官の目から逃れるために、煙が見えなくなる夜にウィスキーの蒸留を行い、祭壇の下や棺の中など、様々な場所に樽に入れたウィスキーを隠しました。この頃のスコットランドのウイスキー生産量の半分以上は違法酒だったと推定されています。
この密造時代に、結果として樽での長期保管により、ウイスキーはマイルドなものとなり、また、樽(特にシェリー樽)の香りや風味が添加され、現代に知られる琥珀色を帯びるようになりました。以降、密造時代が終わりを迎えた後も、樽で熟成させるという工程がウイスキー製法の重要な要素となります。
■グレーンウイスキーの始まり
1831年、アイルランド出身のイーニアス・コフィーはカフェ式蒸留(連続式蒸留器の一種)の特許を取得し、より安価で効率的なウイスキー蒸留を確立します。これによって、それまでのモルト・ウイスキーと異なるトウモロコシなどの穀類を原料とするグレーン・ウイスキーが製造されるようになります。
■ブレンデッドウイスキーの始まり
1850年、アンドリュー・アッシャーは、伝統的なポットスチル(単式蒸留器)によるウイスキー(モルト・ウイスキー)と新しいカフェ式の連続蒸留器によるウイスキー(グレーン・ウイスキー)を混ぜたブレンデッド・ウイスキーの生産を開始しました。この新しい蒸留方法は、伝統的なポットスチルを重視したアイルランドの蒸溜所では拒絶され一部蒸留所のみ採用に留まりました。また、多くのアイルランド人は、新たな製法によるウイスキーを、ウイスキーとは呼べないと非難しました(アイリッシュにとってウイスキーとはモルト・ウイスキーのみを指した)。一方でスコットランド(特にローランド)では広く採用され、1824年に操業開始したキャメロン・ブリッジ蒸留所は、1830年には連続式蒸留器を用いて世界で最初にグレーン・ウイスキーの生産を開始しました。ブレンデッド・ウイスキーの生産もスコットランドで活況を帯び、その万人好みの酒質から、それまでスコットランドの地酒扱いに過ぎなかったスコッチがイングランドなどの他地域でも飲まれるようになり、ブレンデッド・ウイスキーはスコッチの代名詞ともなります。
■ウイスキーの生産国による分類(5大ウイスキー)
5大ウイスキーは、地域によって、スコッチ、アメリカン、カナディアン、アイリッシュ、ジャパニーズに分類されます。別に記載してますが、近年、台湾やインドなどの新興勢力もあります。
■(1)スコッチウイスキー
■スコッチウイスキーの定義
産地であるスコットランドの法律(2009年に制定された「スコッチウイスキー規則(The Scotch Whisky Regulations 2009)」で定められており、下記になります。
①スコットランドの蒸留所で製造されている
②原料は大麦麦芽などの穀物、水、酵母のみを使用する
③アルコール度数94.8度以下で蒸留する
④容量700L以下のオーク樽で、3年以上熟成が必要
⑤瓶詰時のアルコール度数は40度以上
⑥添加物は水とカラメルのみ
■スコッチウイスキーの特徴
・現在では、一般に「スコッチ」という場合、「ブレンデッド」を指すことがほとんどです。
・世界で最も生産量が多いです。
・ザ・グレンリベットやグレンモーレンジィなど「グレン・・」と「グレン」がつく蒸留所が多いです。この「グレン」とはゲール語(ケルト系先住民族の言語)で「谷」という意味で、谷の周りに作られる蒸溜所が多いので、枕詞のようにグレンとついています。
・麦芽を乾燥させる際に使用するピート(泥炭)由来のスモーキーな香りが特徴です(ノンピートもあります)。ウイスキーを語る上で重要なキーワードである「ピート(泥炭)」とは、ヒースというスコットランド北部の原野に多い野草や水生植物などが、炭化した泥炭(炭化のあまりすすんでいない石炭の一種)です。石炭の中では植物からの炭化度が少なく、見た目は湿地帯の表層などにある何の変哲もない普通の泥ですが、可燃物です。採取して乾かせば燃料として使用できる一方で、山火事の延焼要因ともなります。ピートはモルトウイスキーの香りを特徴づける重要な材料です。ピートの煙で麦芽を乾燥させ、そのいぶした香りが麦芽につくことによって、ウイスキー特有のスモーキーな香りが生まれます。
反対に、ノンピートモルトとは、原料の大麦を乾燥させて大麦麦芽にする工程の際に、ピート(泥炭)を使わず、熱風で乾燥させるため、ピート由来のスモーキーフレーバーのない大麦麦芽のことをいいます。
■スコットランド(スコッチ)のグレーンウイスキー
●スコットランドには、グレーンウイスキーの蒸溜所が7つあります。モルトウイスキーの蒸溜所が110もあることを考えると、実に対象的です。かつてスコットランドには30か所のグレーンウイスキー蒸溜所が存在していましたが、現在は各メーカーが1か所で集約的に生産するスタイルへと変わっています。
●モルトウイスキーの蒸溜所と対照的にグレーンウイスキー蒸溜所の数は減っていますが、ブレンデッドウイスキーの生産量は増え続けているため、グレーンウイスキーの需要は高まっており、生産量は増加傾向となっています。グレーンウイスキーの風味構成をつくりあげる要因は多く、原料となるグレーン(穀物)の種類、貯蔵に使うカスクの種類、熟成期間の長さなどによって、風味は大きく異なります。よって、グレーンウイスキーは、生産する蒸溜所ごとに特有のキャラクターを持っています。力強い風味から繊細な風味まで幅は広く、その間にさまざまなバリエーションがあります。このバリエーションの多彩さは本当に言い尽くせないほどで、スコッチブレンデッドウイスキーをつくるときに、重要なファクターとなります。よって、簡単に別のグレーンウイスキーで代用できることもないので、ディアジオ社、ペルノリカール社など、大手メーカーはグレーンウイスキーの蒸溜所を保有・提携しています。もともとグレーンウイスキーはコーンを原料にしていましたが、1980年代になって多くの蒸溜所が小麦に変えました。このグレーン原料の選択や蒸溜方法が、ニューメイクスピリッツに与える影響が変わってきます。例えば、コーンは小麦よりも甘味が強いという特徴があります。そのような原料グレーンの特性を強調するような蒸溜法もあれば、なるべく特性が目立たないようにする蒸溜法もあります。同様に、蒸溜後のスピリッツのアルコール度数が高いほど(94.8%未満で取り出さなければならないという規則がある)無色透明のエタノールに近くなるので、スピリッツのキャラクターは軽めになります。さらにいえば、ニューメイクスピリッツの特性が軽ければ軽いほど、熟成後のグレーンウイスキーはカスクの影響を受けやすくなります。ニューメイクスピリッツ(ニューメイク、ニューポット、ニューボーンなど)は、熟成年数3年未満の無色透明の状態で、蒸溜直後のウイスキーになる前の「原点」です。一般的には商品化されていません。一部限定品であります。
●グレーンウイスキーが初めて製造されたのは、1824年にジョン・ヘイグによって設立されたローランド地方のファイフにある老舗のキャメロンブリッジ蒸溜所です。1831年にはイギリスで連続式蒸留器が開発されたことで、グレーンウイスキーはより安価で大量生産されることとなります。グレーンウイスキーはウイスキー特有のクセが少ないことから、ウイスキーとは認めないという意見も過去にはありましたが、モルト原酒とブレンドしたブレンデッドウイスキーの誕生によって時代と共に認められていきました。現在ではキャメロンブリッジはディアジオ帝国の生産力を支える、グレーンウイスキーの質と量、要ともいえる一番重要な任務を担っています。1920年代以降はグレーンウイスキーの生産に絞られ、1989年からはジンの生産も行なっています。
スコットランドのグレーンウイスキーの蒸留所
①ロッホローモンド蒸溜所(中国ファンド会社、ヒルハウス・キャピタルマネジメント社)
②キャメロンブリッジ蒸溜所(ディアジオ)
③ガーヴァン蒸溜所(ウィリアム・グラント&サンズ)
④インヴァーゴードン蒸溜所(インバーゴードン、ホワイト&マッカイ)
⑤ストラスクライド蒸溜所(シーバス・ブラザーズ、ペルノリカール)
⑥ノースブリティッシュ蒸溜所(エドリントン・グループとディアジオのジョイントベンチャー)、
⑦スターロー蒸溜所(ラ・マルティニケーズ、2010年創立)
■スコットランド(スコッチ)のブレンデッドウイスキー
1860年にモルトとグレーンの混和が酒税法改正によって許可されたため、ブレンド技術を持つアッシャーはいち早く開発を進め、「Usher’s Blended Whisky」をリリースしました。アンドリュー・アッシャーはブレンデッドウイスキーの生みの親といわれています。また、ブレンデッドウイスキーのリリースなどで巨万の富を得たアッシャーは、1885年に創設されたノースブリティッシュ蒸留所(グレーン蒸留所)の初代社長に就任します。アッシャーが作り上げたブレンデッドウイスキーは、従来のウィスキーよりも飲みやすく安価なため、ロンドンの貴族や紳士階級に広がりました。19世紀後半から20世紀初めにかけて、アッシャーに続いてたくさんのブレンデッドウイスキーがリリースされていきました。今では、無数にあるといっても過言ではありません。
ボトラーとブレンデッドの異なる点は、主に下記です。
・ブレンデッド会社は、複数の蒸溜所と提携をして、継続的に原酒を購入し、ブレンデッドウイスキーとして販売します。
・それに対し、ボトラーは、基本的には、単発で、蒸溜所から原酒(樽)を購入して、その原酒をアレンジなどして、モルトウイスキーやブレンデッドウイスキーなどとして販売します。
代表的な銘柄(無数にある、代表的なビッグブランド)
・ジョニーウォーカー
・バランタイン
・オールドパー
・シーバスリーガル
・デュワーズ
・ベル
・ブキャナンズ
・ホワイトホース
■スコットランド(スコッチ)のシングルモルトウイスキー
シングルモルトスコッチウイスキーは、その地域によって、ハイランドモルト、スペイサイドモルト、ローランドモルト、キャンベルタウンモルト、アイラモルト、アイランズモルトの6つに分類されます。一応、「モルト」ウイスキーの視点で整理してます。下記では、それぞれの特色と代表的な蒸留所などに触れておきます。
①ハイランドモルトウイスキー
ハイランドは、スコットランドの北側の大部分を占めます。広大な敷地に比例して、スコットランドの蒸留所のうち約4割の蒸留所がハイランドに集まっており、東西南北4つの地域に分類されています。スペイサイド・アイランズを切り離して区分けされたのは近年のことです。ちなみに映画ハリーポッターに出てくる「ホグワーツ魔法魔術学校」がある地方としても知られています。4つのエリア内でも個性の際立った特徴がみられます。
4つのエリアの代表的な蒸留所
◎東ハイランド(約12)
●アードモ
●フェッターケアン
●グレンギリー
●グレンドロナック
●ロイヤルロッホナガー
●グレンギリー
●西ハイランド(約4)
●オーバン
●ベンネヴィス
●アードナムルッカン(2014創業)
●ノックニーアン(2017創業)
●グレンロッキー(1983閉鎖)
◎南ハイランド(約10)
●アバフェルディ
●エドラダワー
●グレンゴイン
●グレンタレット
●タリバーディン
●ブレアアソール
●ロッホローモンド
◎北ハイランド(約20)
●プルトニー
●クライヌリッシュ
●グレンモーレンジィ
●ダルウィニー
●ダルモア
●トマーティン
●バルブレア
●ロイヤルブラックラ
●ティーニニック
●ウルフバーン
●スペイサイド(蒸留所名は「スペイサイド」ですが,地理区分的には北ハイランド)
●ブローラ(再開予定)
②スペイサイドモルトウイスキー
スペイサイドは、ハイランド地方北東部のスペイ川流域の東京都ほどの小さなエリアですが、スコッチにとって重要なエリアのため、独立して「スペイサイドのウイスキー」と言われます。もともとハイランドの一部として紹介されていましたが、近年、スコットランドの全蒸溜所のおよそ半分、50あまりの蒸溜所がこのスペイ川流域に集中しているため、蒸溜所が多すぎて分けてカウントされるようになりました。この地域は、1707年から1823年の酒税法改正まで「密造時代」になります。谷が多く緑の溢れる地域で地理的に隠れやすかったスペイサイドが密造の場所として選ばれました。この出来事がきっかけでウイスキーの貯蔵に樽を用いることや、大麦麦芽の乾燥にピートを使用することが始まったとされています。政府から逃れるためにとった行動が、現在のウイスキーにとって重要な基盤になっています。スペイサイドの蒸留所は「グレン(=谷)」がつくものが多いことからも谷が多い地域であることがうかがえます。
代表的な蒸溜所(約50)
●ザ・グレンリベット
●グレンフィディック
●マッカラン
●グレンファークラス
●オルトモア
●グレングラント
●インチガワ―
●ロングモーン
●ローズアイル
③ローランドモルトウイスキー
ローランドは、スコットランドの南側、イングランドのすぐ真上に位置します。首都エジンバラやグラスゴーなどの主要都市が存在し、全人口の80%が集中しています。
●かつては北のハイランドモルトと激しい競争を繰り広げ、数十の蒸溜所を擁していましたが徐々に衰退し今に至ります。
●非常に多くのグレーンウイスキー蒸溜所があります。1689年~1788年までの100年間で、スコットランドで建設された蒸溜所は31でした。そのうちローランドが25、ハイランドが5、アイラが1と完全なローランドの天下無双状態でした。当時、スコッチウイスキーの90%はローランドでつくられていると言われるほどでした。
●1707年、スコットランドとイングランドが合併(グレートブリテン連合王国の成立)すると、産業の要だったウイスキーへの課税が跳ね上がります。ハイランド地方(スペイサイド含む)の蒸溜業者はこの重税から逃れるため、密造という方法をとります。しかしローランド地方はエジンバラやグラスゴーといった大都市を擁しており、酒税を取り締まる役人の目が届きやすかったため、ハイランドやスペイサイドのようにウイスキーを密造するわけにはいきませんでした。しかしこのままでは税金が高すぎてウイスキーを作り続けられないため、ローランド地方の蒸溜所は、大麦に比べて安価な穀物(トウモロコシなど)を使ったウイスキーを作り始めます。これがグレーンウイスキーの始まりと言われます。
●しかし、グレーンウイスキーは無個性で風味がなく、品質が低かったので、単体で飲まれることはほとんどありませんでした。この頃は、ブレンデッドの技術もありませんでした。実際、モルトとグレーンの混和が酒税法改正によって許可されたのは、100年近くあとの1860年です。そのため次々と蒸溜所が閉鎖されていったのです。ちなみに、ローランドで作られたグレーンウイスキーはそのまま飲まれたものはごく一部で、蒸溜後はロンドンなどにジンの材料として輸出することが多かったようです。
●しかし、1784年にいわゆる「ウォッシュ(もろみ)法」が成立すると、この法律がローランドでのウイスキー造りを加速させる一因になりました。ウォッシュ法とは、イングランド及びローランドを対象とした税制で、優遇措置でした。当時、ウイスキー製造にかかる税金はスチルの容量に対して課税されていました。よって、効率よくウイスキーを造ろうとして大きなスチルにすると多額の税金を支払う必要があった訳です。しかし、ウォッシュ法はウォッシュの生産量、つまり出来上がった量に対してのみ課税するという法律です。当たり前ですがウォッシュ法の対象外のハイランド地方で作るよりも断然有利になります。この法律の境界線がハイランドラインと呼ばれるようになりました。その後ローランドの蒸留所は100カ所を超えるまでになりましたが、1831年連続式蒸留器が発明されると徐々に手間のかかるモルトウイスキーから効率よく製造できるグレーンウイスキーへと変わっていきました。
しかし、1898年のパティソン事件(ウイスキーの信用・信頼をなくす詐欺事件)、1920年~1933年のアメリカ禁酒法時代、1939年~1945年の第二次世界大戦などの影響を受けた20世紀ウイスキー不遇の時代には、次々と蒸留所が閉鎖され、一時期は、オーヘントッシャンとグレンキンチ―の2つの蒸留所だけになってしまいました。ブラッドノックは、1938年~1956年と1993年~1999年と2回閉鎖と買収を繰り返し、2000年に再開しています。2015年~2017年にも買収と改修のため休業となります。オーヘントッシャン、ブラッドノック、ダフトミル、グレンキンチーなどの蒸留所があります。また、閉鎖蒸留所では、有名なローズバンクがあります。1773年創業で1993年閉鎖です。創業初期は「キャメロン蒸留所(キャメロンブリッジとは別)」でしたが、1840年にローズバンクになりました。ローランドモルトの中でも評価が高く、閉鎖された今でも非常に人気です。2019年より新ローズバンク蒸留所の建設中で、「ローズバンク蒸溜所で最初の樽が充填された」との情報もあります。蒸留所から最初のウイスキーが発売されるまでは数年待たなければなりませんが、その間、蒸溜所では1993年の閉鎖前に製造されたボトルが販売されています。高価ですが。1度は廃れたかに見えたローランドですが、近年はウイスキーブームの後押しもあり蒸留所の再建・建設が相次いでいる注目の地域です。このように、モルトウイスキーの蒸留所は一時は廃れましたが、グレーンウイスキーの蒸留所の多くがローランドにあります。。
グレーンウイスキー蒸留所に加えて、モルトウイスキーの新蒸留所が増え、ローズバンクの復活と、ローランドが再び力強く復活しています。
代表的な蒸溜所(モルト)(約30)
●オーヘントッシャン
●グレンキンチー
●ブラドノック
●ダフトミル(2005)
●リンドーズアビー
●レディバンク(2003、会員制)、
●キングスバーンズ(2014)
●グラスゴー(2012)
●アナンデール(2014)
●アイルサベイ(ガーヴァンの敷地内、2007、グレーン、モルト)
●ローズバンク(再開予定)
代表的な蒸溜所(グレーン)(約5)
●キャメロンブリッジ
●ガーヴァン
●スターロー
●ストラスクライド
●ノースブリティッシュ
下記の2ヶ所を除けば、グレーンウイスキー蒸留所は、ほぼ、このローランドに集中していることになります。
●ロッホローモンド
南ハイランドに分類されますが、ローランドとの境界にあります。
●インヴァーゴードン(インバーゴードン)
ハイランド地方にある比較的新しい1960年に設立された新しい大規模な蒸留所
④キャンベルタウンモルトウイスキー
キャンベルタウンは、他と比べて小さいエリアですがスコッチを語る上では欠かせない場所です。キャンベルタウンはスコットランドの南西、キンタイア半島の端っこにひっそりとある港町です。『アーガイル地方』といい、セーターやベストのデザインで定番の、この地に住む氏族が身につけた民族衣装に多く用いられた柄・模様『アーガイル柄』の語源ともなっています。キャンベルタウンの名前はこの地方の氏族だったキャンベル家(キャンベル・オブ・アーガイル)にちなんでいるとされています。キャンベルタウンは100年ほど前までは世界のウイスキーの首都とまで呼ばれていました。1925年に閉鎖したヘーゼルバーン蒸溜所(現スプリングバンク)で1920年に竹鶴政孝が研修で滞在したこともあります。しかしその後ウイスキー産業は衰退。現在では3つの蒸溜所、5種類のウイスキー銘柄がつくられています。ウイスキー蒸溜所はスプリングバンク蒸溜所、グレンスコシア蒸溜所、そして2004年に80年ぶりに再オープンしたスプリングバンク第2の蒸溜所ともいわれるグレンガイル蒸溜所(キルケラン)の3つです。スプリングバンク蒸留所は、スプリングバンク、ヘーゼルバーン、ロングロウの3ブランドがあります。キルケランも加えられる場合もあります。ヘーゼルバーンは、スプリングバンク蒸溜所が1997年からその名を冠して生産しています。「グレンガイル」という名前の使用権は、同じ町にあるグレンスコシア蒸留所にあるため、グレンガイルが生産するシングルモルトは商標の問題で「キルケラン」という名前で販売されています。グレンスコシア蒸留所は、2014年にはロッホローモンド社がオーナーとなりました。スプリングバンク蒸留所のオーナーの兄弟喧嘩の結果、1872年に設立されたグレンガイル蒸留所は、1925年についに生産が停止しました。グレンガイルが生産を停止してから75年後の2000年、創設者ウィリアム・ミッチェルの甥であり、現スプリングバンク蒸留所のオーナーであるヘドレー・ライト氏が蒸留所を買い取り、改修が開始され2004年にグレンガイルは生産を再開しました。
スコッチの生産地区分は、古くはハイランド、ローランド、アイラ、キャンベルタウンの4つに分類されてきました。今ではそれにスペイサイド、アイランズを加えて6地区とするのが一般的ですが、1990年代後半から2000年代初めにかけ、キャンベルタウンを生産地区分から外すという動きが生じました。スコッチウイスキー協会、通称SWAが言い出したことで、理由はキャンベルタウンには2つの蒸留所しかなく、生産地呼称の要件を満たしていないということでした。それに猛烈に異を唱えたのが、スプリングバンク蒸留所のオーナーであるミッチェル家のヘドレー・ライト氏でした。氏の言い分は、「2つで足りないというなら、3つに増やすまで。ローランドにはオーヘントッシャンとグレンキンチ―、ブラッドノックの3つしかないが、そのローランドを残してキャンベルタウンを廃止するというなら、俺がキャンベルタウンにもう1つ蒸留所をオープンする」です。そのライト氏の言葉どおり、キャンベルタウン第3の蒸留所となるグレンガイル蒸留所が2004年にオープンしました。もともとこの蒸留所は1872年に創業した古い蒸留所で、創業者はライト氏の先祖にあたる人物でした。1926年の閉鎖以来、持ち主は転々としたが建物は残っていました。それをミッチェル家が買い取り2004年に再オープンしました。ただし蒸留設備は何も残っていなかったので、すべて新しく導入しました。スチルだけはインバーゴードンのベンウィヴィス蒸留所の中古を買ってきましたが、それ以外は新調です。ベンウィヴィスのスチルにこだわったのは、当時バンクの所長を務めていたフランク・マクハーディ氏が、若い時勤めていた蒸留所だったからでした。生産はスプリングバンクの職人たちが兼務していて、9月から12月の4ヵ月くらいしか操業していませんが、全世界にファンがいます。グレンガイルというブランド名は他社が持っているため、シングルモルトはキルケランという名前で出ています。
代表的な蒸溜所(約3)
●スプリングバンク(スプリングバンク、ヘーゼルバーン、ロングロウ)
●グレンガイル(キルケラン)
●グレンスコシア
⑤アイラモルトウイスキー
アイラモルトウイスキーは、アイラ島で造られるウイスキーです。アイラ島は、スコットランド海岸から約27km、原始的な自然に囲まれた人口わずか3,000人の小島です。荒々しい波が打ち寄せる島は、面積の4分の1程度が泥炭(ピート)に覆われています。最大の特徴は口の中燻されているかのようなスモーキーフレーバー。このヨード臭やピート香に誘われて、世界中から観光客が訪れます。世間では「薬臭いウイスキー」、「アレを飲まなきゃウイスキー通とは言えない」と愛をこめて批評されています。このアイラ地方には年間10万人以上の人々が訪れ、スペイサイドと並ぶ「スコッチの聖地」と呼ばれています。
代表的な蒸溜所(約11、ビッグネームばかり)
●ブナハーブン
●アードベッグ
●ボウモア
●ブルックラディ(ブルイックラディ)
●カリラ
●ラガヴーリン
●ラフロイグ
●キルホーマン
●アードナッホー(2019)
●ポーティントゥアン蒸留所(ポートナトゥルアン、ポートナーチュラン、2024予定)
●ポートエレン(再開予定)
⑥アイランズモルトウイスキー
アイランズモルトウイスキーは、スコットランド北部周辺の島々で造られるウイスキーです。この島々は、もともとハイランドの中に含まれていましたが、近年スペイサイド地方と同じように分類されました。アイラ島を除いたスコットランドの北岸から西岸にかけて点在する島々を指します。地理的にはこの島々のエリアにアイラ島も入りますが、アイラ島のモルトはその個性の強さから、アイランズとは別に、独立して区分けされます。各島に存在します蒸溜所の個性が強く、多彩なウイスキーの種類が存在します。スコットランドの北西側を半分を囲む感じで、約800の島々が点在しますが、現在蒸溜所の存在するオークニー諸島(メインランド島)、ルイス島(ハリス島)、スカイ島、マル島、ジュラ島、アラン島、ラッセイ島などを指します。
代表的な蒸溜所(約14)
●ハイランドパーク(メインランド島)
●スキャパ(メインランド島)
●タリスカー(スカイ島)
●ジュラ(アイルオブジュラ、ジュラ島)
●トバモリー(マル島)
●アラン(アイルオブアラン、ロックランザ、アラン島ロックランザ)
●アビンジャラク(ルイス島)
●ラグ(アラン島)
●アイルオブハリス(ハリス島)
●トーレベイク(トラペイグ、スカイ島)
●アイルオブラッセイ(ラッセイ島、2014)
(2)アメリカンウイスキー
アメリカンウイスキーは、アメリカで造られるウイスキーの総称です。
ケンタッキー州を中心に作られているバーボンウイスキー(ケンタッキーバーボン)とテネシー州で作られているテネシーウイスキーが有名です。近年では、温暖な気候のワシントン州・オレゴン州などのアメリカンシングルモルトが注目を集めています。
■アメリカンウイスキー始まり
もともとアメリカにウイスキーの蒸留技術をもたらしたのは、17世紀後半~18世紀にかけて東海岸に入植したヨーロッパやスコットランド、アイルランドからの移民たちです。アメリカでは、アメリカ独立戦争(1775年-1783年)の間、通貨の代わりとしてウィスキーが取引されていたことがあります。ジョージ・ワシントンも、1797年の大統領辞任後にマウントバーノンで大規模な蒸留所(ジョージワシントンズ蒸留所、マウントバーノン蒸溜所、1814火災消失、2007再建)を運営していました。イギリス植民地時代のアメリカにおいては、イギリスとの距離や大陸内での貧弱な輸送インフラを考えると、アイルランドやスコットランドからの入植者たちは自分たちでライ麦などを原料にしたウィスキーを製造し、自分たちの市場に送る方が有益だと考えるようになります(アメリカンウイスキーの始まり)。こうして、アメリカ東海岸に植民したスコットランド人やアイルランド人がウイスキーの蒸留を開始しました。同時に、当時のウィスキーは非常に需要の高い物品であり、1791年に追加の酒税が課されると、ウィスキー税反乱が起こりました。これは最終的に鎮圧されるが、課税を逃れるために、当時はアメリカ合衆国連邦政府の管轄外であったケンタッキーやテネシーに作り手たちは移住し、当地で採れるトウモロコシを原料としたバーボンが生産されるようになります。
その後、アメリカが東部から西へ西へと開拓(西部開拓時代、1860年頃から1890年頃)を進めていったように、アメリカにおけるウイスキー造りも原料や製法などを独自に開拓していき、自らのアイデンティティを確立していきました。アメリカンウイスキーには、そんなフロンティアスピリッツ(開拓者精神)が宿っています。
アメリカンウイスキーは連邦アルコール法で、原料の比率や製法の違いにより以下の5種類に分類されています。アメリカンウイスキーの代名詞にもなっている「バーボン」もそのうちの1種です。
■バーボンウイスキー
アメリカのケンタッキー州やテネシー州を始めとして、アメリカ全土で造られているウイスキーです。歴史を遡ると、もともとアメリカにやってきたスコットランドやアイルランドからの移民たちは東部のペンシルヴェニア州やヴァージニア州など寒冷な気候でも育つライ麦でウイスキーを造っていました。しかしアメリカ独立戦争終結後の1791年に、ジョージ・ワシントン政権が財政立て直しのためウイスキー税を導入し、これに反発した農民たちは西方のケンタッキー州やテネシー州など政府の目の届かないところに移り、その土地で収穫しやすいトウモロコシでウイスキー造りを開始、このことがバーボンウイスキーの誕生につながりました。ちなみに、バーボンという名前の由来となったケンタッキー州「バーボン郡」とフランス「ブルボン王朝」は同じBOURBONという綴りですが、これは偶然の一致ではありません。イギリス本国との間で起きたアメリカ独立戦争の際、当時ブルボン王朝だったフランスがアメリカ側を支援したため、その感謝の印としてケンタッキー州に「ブルボン(英語読み:バーボン)郡」として地名を残すことになりました。ブルボン朝(ルイ朝)は、ヴェルサイユ宮殿の建設などで有名なルイ14世のお爺さんのアンリ4世に始まる近世フランス王国の王朝です。アメリカの独立戦争の際に支援をしてくれたブルボン朝への感謝の意を表現しています。アメリカの独立は、フランスの参戦が大きかったのだと思います。ただ、この頃は、「第2次百年戦争」で、フランスは、その頃目の敵にしていたイギリスに対抗して参戦したのだと思いますので、アメリカのためではなかったように思います。
■アメリカ禁酒法時代
アメリカンウイスキーにとって避けて通れないのは、1920年代の悪名高い「禁酒法」の時代(1920-1933)です。酒により社会の乱れが見え始めると、飲酒に批判的な考えを持つ敬虔なピューリタンたちが中心となって禁酒運動を開始しました。もともと宗教的・道徳的な精神を重んじるアメリカの法律ですが、1920年にはついに憲法でアルコール飲料の製造・販売・輸送が禁止され、ケンタッキー州のバーボン蒸留所の半分が廃業に追いやられました。国内で全てのアルコール販売は禁止されました。しかし、連邦政府は、医者によって処方されたウィスキーは例外とし、認可薬局で売られることとなりました。この間に、現在も10,000店以上を展開するアメリカを代表する薬局のチェーン店であるウォルグリーンの薬局チェーンは、20店から約400店に増えました。また、この禁酒法によってアメリカンは元より、主要輸出元であったスコッチやアイリッシュも大打撃を被る一方、それまで粗悪品の代名詞であった隣国カナダのカナディアンが密輸などで活性化しました。また、この禁酒法の誕生により、自由を愛するアメリカ国民たちはかえって密造された酒(ムーンシャイン)を飲むようになります。これまでグラス1杯のワインを嗜む程度だった人までもが、強い蒸留酒に手を伸ばすようになったのです。結果として、政府は税収を失う一方、ずる賢いギャングたちが密造酒の製造と密輸で巨万の富を得るようになると、禁酒法は明らかに失策とされ1933年に撤廃されました。アメリカ国民は、酒場でウイスキーを楽しむ喜びを取り戻しました。
■バーボンの始まり
バーボンの始まりはアメリカの建国と同じ1789年まで遡ります。所説ありますが、有名な説に触れておきます。
当時のウィスキーは、農家の軒先や納屋に置いたごく小さな蒸留器で造る簡単で素朴なものでしたが、1785年ジョージタウンにやって来たエライジャ・クレイグ牧師は、副業でウィスキー造りに励み、そのために蒸留所として丸太小屋を建てました。そのときに考案したのがトウモロコシに大麦とライ麦をミックスして火にかけ、糖分を抽出して水を混ぜ、リンゴとプラムを入れて熟成させたのちに蒸留するというものでした。エライジャ・クレイグ牧師は、蒸留したウィスキーを、内側の焼けた樽に入れたまま丸太小屋に置き忘れたままにし、3〜4年後に開けてみると、焦げたオークのために赤味がかった芳醇な液体が現れた、というのがバーボンの始まりという説が有力です。このことから、クレイグ牧師は「バーボンの父」と呼ばれるようになります。
「バーボン」という名前は、この時初めて造られたバーボンウイスキーがケンタッキー州のバーボン郡で造られたことに由来します。「バーボン」が生まれたのはケンタッキー州のバーボン郡ですが、バーボンには特に生産地の規定があるわけではなく、バーボンの原料比率と製法を守ったウイスキーは「バーボンウイスキー」と名乗ることができます。
■バーボンの広まった要因
この地域でバーボンが造られるようになった理由は2つあります
●①バーボン造りに重要なトウモロコシ、良質な水、オーク樽が揃っていたこと
●②移民と共にウイスキーの蒸留技術がやってきたこと
こうした条件もあり、バーボンの製造は広がっていくようになりました。
バーボンの醸造が始まる少し前、1775年から 1783年にかけては、「アメリカ独立戦争」がありました。アメリカ東部の13個の州がイギリスからの独立を目指して戦い、勝利を納めたことによりアメリカ合衆国は独立することとなります。
独立したアメリカ合衆国は、戦争によって生じた負債を返却するため、1791年から国内で生産物にたいしての税金をかけはじめます。その課税は国内で生産された蒸留酒にまで及び、ウイスキーももちろん対象となります。(当時の蒸留酒のほとんどがウイスキーであったため、「ウイスキー税」と呼ばれました。)
ウイスキーは主に西部開拓民の農家によって作られており、彼らの重要な副収入となっていました。そのため、西部開拓民は課税に猛反発をし、反乱を起こします。これは「ウイスキー・レベリオン(Whisky Rebellion)」と呼ばれています。ウイスキー・レベリオンは課税が開始された1791年から1794年にかけて起きました。ウイスキー・レベリオンのなかで、一部の住民達は反乱に加わらず、アメリカ合衆国の国外に逃亡しました。当時のケンタッキー州やテネシー州はアメリカ合衆国に属していなかったため、ウイスキー造りに知見や経験のある移民が増えました。ウイスキー・レベリオンによって移民が増えたことにより、ケンタッキー州やテネシー州でのウイスキー造りは勢いを増しました。当時はまだアメリカ領ではなかったこれらの地に移住し、その地の名産品であるトウモロコシでウイスキー造りを始めたことが、バーボンの起源とされています。
ケンタッキー州は1792年、テネシー州は1796年にアメリカ合衆国の州となっています。
■バーボンウイスキーの代表的な銘柄
アーリータイムズ(Early Times)
I.W.ハーパー(I.W. Harper)
ジム・ビーム(Jim Beam)
フォア・ローゼズ(Four Roses)
メーカーズマーク(Maker’s Mark)
ワイルドターキー(WILD TURKEY)
エライジャ・クレイグ(Elijah Craig)(ヘヴンヒル蒸溜所)
ウッドフォードリザーブ(Woodford Reserve)
オールド・クロウ(Old Crow)
※「エライジャ・クレイグ」の名は現在ヘヴンヒル社が販売するケンタッキーのストレートバーボンウイスキーのブランドとして使用されています。宣伝のためにブランド名に使用しており、先述の「エライジャ・クレイグ」の設立した蒸溜所ではありません。ヘヴンヒルは、他にも、有名なエヴァン ウィリアムズ、ファイティング コック、ヘブンヒル、ヘンリー マッケンナ、JTS ブラウン、オールド フィッツジェラルドなどのバーボンを始め、その他の蒸溜酒などのブランドを所有しています。
■テネシーウイスキー
テネシーウイスキーは、アメリカのテネシー州で造られるウイスキーです。
テネシーウイスキーを生んだテネシー州は、アメリカ合衆国の南東部に位置しており、すぐ北にはバーボンの聖地とされるケンタッキー州が隣接しています。テネシーとケンタッキーでは、18世紀後半のアメリカ建国直後から、トウモロコシを主原料としたバーボンウイスキー造りが広まっていました。特に、ケンタッキー南部は、コーンベルトと呼ばれるトウモロコシが主要作物として盛んにつくられていた場所でした。また、テネシー州には、熟成樽の材料となるホワイトオークが豊富にありました。テネシーウイスキー製造過程で必要なサトウカエデの樹液は、メープルシロップの原料になります。
ともにバーボン文化を育んできたテネシーとケンタッキーですが、テネシーウイスキーが生まれたのは1800年代後半です。1861年から1865年にかけて、アメリカ合衆国は南と北に分かれて激しい内戦を繰り広げることになります。世にいう「南北戦争」です。南北戦争時、テネシー州は南軍について戦いました。お隣のケンタッキー州はもともと南軍指示だったのですが、北軍に寝返ってテネシー州と戦った歴史があります。南北のちょうど境界線となったテネシー州では戦いが激化、壊滅的な被害が出ます。逆にケンタッキー州は比較的軽傷で済みましたので、早々に産業を立て直します。このような経緯からテネシー州の人々はケンタッキー州の人々に対して強い敵対心を持ちます。そして戦後、ケンタッキーの象徴となったバーボンに対抗するように、この地の蒸溜技術者たちの手で「テネシーならではのウイスキー」が育まれていきました。そんなボロボロの「テネシー州」に若くして蒸溜業を営む青年がいました。それがテネシーウイスキーを代表する「ジャックダニエル蒸溜所」を設立した「ジャスパー・ニュートン・ジャック・ダニエル」です。
「ジャスパー・ニュートン・ジャック・ダニエル」は1850年9月、テネシー州に生まれました。蒸溜所のオーナー兼牧師のダン・コール氏のもと、7歳の頃から蒸溜技術の習得に励みます。そしてダン・コールが牧師業に専念することになった時、ジャックに蒸溜所を任せることとなります。その時のジャックの年齢は13歳です。その頃は南北戦争真っただ中です。戦火の中、ジャック少年はコツコツと蒸溜技術を積み上げていたのです。
ジャックは蒸溜技術において高い評価を受けていましたが、身長は150㎝程度ととても小柄な人物でした。「ボーイ・ディスティラー(少年蒸溜業者)」というあだ名で呼ばれており、その小さい身体にかなりのコンプレックスを持っていたようです。
ケンタッキー州の蒸溜業者達が自分達の造ったウイスキーをフランスの王族にちなんで「バーボン」と名づけたことも気取っているようで気に入りません。そして、ジャックは、「バーボンではなく、あくまで「テネシー発のウイスキーとしてトップを獲る」と誓うのです。そして今日、ジャック・ダニエルは見事「世界一売れているアメリカンウイスキー」の称号を手にしました。テネシー発のウイスキーが、ケンタッキー州はおろかアメリカ全土のウイスキーの売り上げを上回ったのです。今もジャック・ダニエルは「我々が造っているのはバーボンではない」と断固主張しています。
■ジャックダニエル蒸溜所の始まり
アメリカでも南北戦争終了後に、連続式蒸留機が広く採用されて大規模生産の時代に突入し、1866年に政府公認第1号の蒸留所となるジャック・ダニエル蒸留所が建設されました。
テネシーウイスキーはテネシー州で造られることが法律で定められています。ただし製法としてはバーボンの条件を満たしているため、バーボンウイスキーにも分類できます。テネシーウイスキーにだけあってバーボンにはない工程として、蒸留後の原酒をサトウカエデの炭で濾過する「チャコールメローイング製法」があります。これにより雑味が取り除かれ、口あたりまろやかでほんのり甘いテネシーウイスキーらしい味となるのです。「サトウカエデ(砂糖楓、メープルツリー、紅葉、楓、かえで、シュガーメープル)」から採取された樹液は「メイプルウォーター」と呼ばれ、糖度は2%程度です。スイカのような香りがします。これを煮詰めて糖度60~70%までにしたものがメイプルシロップです。
単独銘柄として世界で1番売れているアメリカンウイスキーはテネシーウイスキーの「ジャック ダニエル(ジャックダニエルズ、と表記されることが多い)」です。スローガンである「IT’S NOT BOURBON. IT’S JACK.(バーボンではない。ジャックだ)」に、単に「バーボン」とひとくくりにされたくはないというテネシーウイスキーとしてのプライドが感じられます。「テネシーウイスキー」のラベルを大きく貼り、頑なにそのプライドを貫いています。
このため、今でもテネシーの造り手たちは「バーボンではない、あくまでテネシーウイスキーだ」と強いこだわりをもっているだそうです。
テネシーウイスキーを飲むとバーボンと味が似ていて、「甘くて飲みやすい!」と感じる方が多くいます。ジャック・ダニエルをコーラで割ったジャックコークなどはお酒を飲みなれていない方にも人気です。基本的な原料はバーボンと同じで、51%以上がトウモロコシです。蒸溜方法や熟成方法にも違いはありません。
違いは、「テネシー州で造られていること」と「蒸溜直後の原酒(ニューポット)をサトウカエデの木を原料に作った炭で濾過するチャコールメローイング製法で造られていること」です。最近では「チャコールメローイング製法」を使っていないテネシーウイスキーも出てきたので、もはや違うのは「テネシー州で造られているかどうかだけ」とも言えます。
■チャコールメローイング製法
テネシーウイスキーの特徴のひとつである「チャコールメローイング製法」は蒸溜後、樽詰めする前の原酒をサトウカエデの炭でろ過します。ジャック・ダニエル蒸溜所の場合、炭をびっしりとつめた「ろ過槽」に8~10日かけて原酒を通していきます。このろ過製法が若い蒸溜酒の味の尖りを取り除くのです。この手法は「リンカーン郡製法」としても知られ、ウイスキーにかすかなスモークの香りと、ガラスのようになめらかな舌触りと、とろみのある甘さを与えます。テネシー・ウイスキーの蒸留方法、「リンカーン郡製法」はジャックダニエル創業者のジャック・ダニエルがこの地で開発したことから名づけられました。しかし、後にその地域がムーア郡として分離したため、現在のリンカーン郡とは異なります。ちなみに全てのテネシーウイスキーがこのチャコールメローイング製法(リンカン郡製法)を使っているわけではありません。「プリチャーズ蒸溜所」は炭でろ過していないテネシーウイスキーを造っています。さらに言うとチャコールメローイング製法を使ったら「バーボン」と名乗れないわけではありません。一般的に「バーボン」を名乗っている蒸溜酒はこの技法を使わないというだけです。
テネシーウイスキーはジャック・ダニエルだけではなく、現在ではさまざまな蒸溜所が30箇所前後稼働しています。ジョージ・ディッケル蒸溜所、コルセア蒸溜所などがあります。
■アメリカンウイスキーの定義
連邦アルコール法で下記のように規定されています。
①アメリカ合衆国内で製造されていること
②穀物を原料とし、発酵させ、アルコール度数95%以下で蒸溜
③オークの容器で貯蔵、アルコール度数40%以上で瓶詰めしたもの
■バーボンなどの詳細な定義
さらに上記のアメリカンウイスキーの条件を満たした上で、原料などにより以下のような分類がされています。
①バーボンウイスキー
・原料の51%以上がトウモロコシである
・アルコール度数80%以下で蒸溜
・内側を焦がした(チャー)新品のオーク樽で熟成させる
・62.5%以下で樽詰めする
・2年以上熟成させたものは”ストレート”バーボンウイスキー
・熟成期間が4年未満の場合はラベルに熟成年数を表記する
・ボトリングに際しては希釈用の水以外加えることができず、アルコール度数は40%以上とする、着色用のカラメル添加は不可
②ライウイスキー
ライ麦51%以上、アルコール80%以下で蒸溜、内側を焦がした(チャー)オークの新材でつくられた容器に62.5%以下で貯蔵・熟成
③ウィートウイスキー
小麦51%以上、アルコール80%以下で蒸溜、内側を焦がした(チャー)オークの新材でつくられた容器に62.5%以下で貯蔵・熟成
④モルトウイスキー
大麦麦芽51%以上、アルコール80%以下で蒸溜、内側を焦がした(チャー)オークの新材でつくられた容器に62.5%以下で貯蔵・熟成
⑤ライモルトウイスキー
ライ麦芽51%以上、アルコール80%以下で蒸溜、内側を焦がした(チャー)オークの新材でつくられた容器に62.5%以下で貯蔵・熟成
⑥コーンウイスキー
トウモロコシを80%以上使用し、アルコール80%以下で蒸溜、貯蔵を・熟成行うオークの容器は古樽か内側を焦がしていない容器
⑦その他
・前述の通り熟成期間の規定はありませんが、それぞれ最低2年以上熟成させたものは「ストレートバーボンウイスキー」「ストレートコーンウイスキー」という風に「ストレート」の表示が可能となる。
・ケンタッキー州では、州内で造られ1年以上の貯蔵がされたものはケンタッキー・バーボンと名乗ることができる。
・また、4年未満のものについてはラベルに熟成期間を表示しなければならないため、多くのケンタッキー・ストレート・バーボンは4年以上の貯蔵を行っている
■テネシーウイスキーの定義
①アメリカ国内で製造
②主原料のトウモロコシの使用比率が51%以上
③アルコール度数80%以下で蒸溜
④内側を焦がしたホワイトオークの新樽で、アルコール度数62.5%以下で貯蔵・熟成
⑤水以外を加えずアルコール度数40%以上でボトリング
⑥テネシー州で製造
⑦サトウカエデの木から作った炭で濾過処理をしている(チャコールメローイング)製法で造られている
(3)アイリッシュウイスキー
アイルランドで造られるウイスキーです。スコットランドへ伝わった製法はアイルランドにも広まりました。
アイルランドとは、アイルランド島の大半を占めるアイルランド共和国と北東部の北アイルランドです。アイルランド共和国は独立国家ですが、北アイルランドはイギリス(UK)の一部です。この2つの国で作られるウイスキーをアイリッシュウイスキーと呼びます。ウイスキー発祥の地とされています。年間の気温差が小さく、冷涼で程よい湿度があるアイルランドの気候はウイスキーの製造に適しています。スコッチウイスキー、バーボンウイスキー、ジャパニーズウイスキーと比べると、日本での知名度はまだ低く、飲んでいる方はあまり見かけません。しかし、日本でも良く見かける「アイリッシュパブ」は、その名のとおり、アイルランドのパブを指します。「パブ(パブリック・ハウス、Public House)」とは、イギリスで発達した、気楽にビールやウイスキー、おつまみなどを楽しめる酒場のことです。しかし、アイルランドにおけるパブは、飲食だけでなく雑貨屋などと兼業しているお店が多い点が特徴です。現地のパブによっては、アイリッシュ・ミュージックや、伝統楽器を使った生演奏を聞かせてくれるものもあるようです。
アイリッシュウイスキーは1900年頃まで、世界の6割近いシェアを占めていたと言われる大御所です。厳しい密造酒摘発などにもさらされながら大量生産を行っていました。ピークは1900年頃で、その頃のアイルランドの蒸溜所の数は12,000~15,000と言われていました。しかし、1919年、主な取引先であるアメリカで禁酒法が実施されます。するとアメリカにウイスキーが輸出できなくなり、生産規模が一気に縮小します。続くアイルランド内戦で経済力が低下、さらに第二次世界大戦においてアイルランドは中立の立場を取ったため、国内の供給を優先しウイスキーの輸出を制限しました。戦地のアメリカ兵にはアイリッシュウイスキーに代わり、スコッチウイスキーが配給されはじめます。これがアメリカ兵にウケて、大流行しました。徐々に市場のシェアを奪われ、アイルランドの蒸溜所は次々と閉鎖されます。19世紀後半から20世紀初頭には蒸溜所は30までに激減し、1980年代にはたった2つに集約されてしまいます。
そんな中、1985年、ハーバード大でアイリッシュ・ウイスキーの歴史の研究をし、その栄枯盛衰を学んできたジョン・ティーリング氏が国営のジャガイモのシュナップス蒸溜所を買収し、アイルランドで100年ぶりに新しいウイスキー蒸溜所を誕生させました。それが1987年創業のクーリー蒸溜所です。そのジョン・ティーリング氏の息子2人がティーリング蒸溜所の創業者です。アイリッシュの革命児の異名をとるクーリーは次々と商品をリリースし、開業以来300以上のメダルを受賞しています。昨今アイリッシュウイスキーの特徴的な味わいが見直され、新興蒸溜所が次々と乱立しています。現在その数は30を超え、復興の兆しを見せております。2023年現在も、世界的にアイリッシュウイスキーの人気が急上昇中です。オールド・ブッシュミルズ、新ミドルトン蒸溜所(ジェムソン)、クーリー、キルベガン、ティーリング、タラモア(タラモアデュー、1954年閉鎖、2014年復活)などの蒸留所があります。現在、ジェムソン、レッドブレスト、グリーンスポットなどを生産するアイルランド最大の新ミドルトン蒸留所は、1975年に完成しました。1966年、長年低落傾向にあったアイリッシュ・ウイスキー業界にあって残っていたコーク、ジェムソンとパワーズの3社は存続をかけて合併を決意し、アイリッシュ・ディスティラーズ社が誕生しました。生産も集約化することになりましたが、ダブリンの中心街にあったジェームソンとパワーズ(ジョンズレーン)の蒸溜所は拡張の余地もなく操業にも不便なことから閉鎖し、広大な敷地と豊富で良質の水に恵まれているミドルトンに新蒸溜所が建設されました。それに伴い、1825年~創業していた旧ミドルトン蒸留所とジョンズレーン蒸留所は、1975年閉鎖しました。また、1829年に設立した旧タラモアデュー蒸留所も1954年に閉鎖されました。2014年、グレンフィディックで有名なウィリアム・グラント&サンズ社がタラモアデューのブランドを買取り、元々のブランドの起源でもある新タラモア蒸留所がタラモアの街にオープンしました。タラモアデューは、1974年までは閉鎖される前のジョンズレーン蒸留所、1975年にジョンズレーン蒸留所が閉鎖されてからは、新ミドルトン蒸留所で生産され続けました。
■アイリッシュウイスキーの始まり
アイリッシュ・ウイスキーはヨーロッパの古い蒸留飲料のひとつと考えられており、アイリッシュ・ウイスキーとスコッチ・ウイスキーのどちらがより歴史があるかの議論には決着がついてません。伝承によれば、6世紀に中東を訪れたアイルランドの修道僧が、現地で香水を作るために用いられていた蒸留技術を持ち帰り、それを酒造に応用したという説があります。また、聖パトリックが蒸留技術を伝えたとする伝承も存在します。ヘンリー2世によるアイルランド遠征の時、家臣からの報告書にアイルランドで大麦から蒸留した酒が飲まれていた記録があったと言われていますが、確認できる史料は無く、信憑性を疑問視する声もあります。12世紀当時にアイルランドで飲まれていた蒸留酒は、ビールを蒸留した濁り酒でした。アルコール度数は約20度と現在のウイスキーに比べて低く、発酵の段階で果物、蜂蜜、ハーブを入れて香りをつけていたともいわれています。
オールド・ブッシュミルズ蒸留所(英語版)は1608年にジェームズ1世から免許を授かった最古の公認蒸留所を名乗り、ボトルにも『1608』を刻印していますが、1608年当時にブッシュミルズという名の蒸留所が実在していたかは不確かであり、ブッシュミルズが操業を始めたことが確認できるのは1784年です。輸入元のアサヒビールでは「1608年とも言われ」という表現を使っています。
■ウイスキーの語源
ウイスキーという言葉の由来は、「命の水」を意味するアイルランド語の「uisce beatha(イシュケ・バーハ)」に由来するといわれています。「イシュケ・バーハ」の語源については、ゲール語で「健康の水」を意味する「ooshk-‘a-pai」と呼ばれていたものがラテン語で「命の水」を意味する「uisge-‘a-bagh」という言葉で呼ばれるようになり、「uisge-‘a-bagh」がアイルランド語の「uisce beathadh」に変化したとされています。1172年のヘンリー2世によるアイルランド遠征の時、アイルランド人が愛飲していた蒸留酒はイングランド兵によって「ushky」と誤って伝えられ、その言葉が英語のwhiskeyに転訛(てんか)したといわれています。アイルランドでは、ウイスキーは「水」を意味する「uisce(ウィスカ)」の単語で短縮されて呼ばれ、アイルランド語には酒類、特にウイスキーを指してしばしば「Craythur(クリーチャー)」という言葉が使われます。
ウイスキーの英語の綴りが、アイルランドの「whiskey」とスコットランドの「whisky」と違いがある理由や法律上の違いなどは分かっていません。かつてはブッシュミルズや現在は消滅したコールレーンといった有力どころの蒸留所も「whisky」の綴りを使用し、アイルランド国内でも「whisky」と「whiskey」の両方の表記が使われていたようです。一説には、本来アイルランドでも「whisky」と綴られていましたが、19世紀になってダブリンの蒸留所が品質を宣伝するためにeの一字を入れて差別化したところ、地方の蒸留所もこれに続いたためにアイリッシュ・ウイスキー全体が「whiskey」と綴られるようになったとされています。「パディ(サゼラック社が製造するブレンデッド・アイリッシュ・ウイスキーのブランド)」を生産していたコーク蒸留所は「whisky」の綴りを使い続けていましたが、海外市場での混乱を避けるため、1979年に「パディ」にも「e」が入れられました。
■アイリッシュウイスキーの定義
アイルランド共和国においては、1980年アイリッシュ・ウイスキー法第1条により、次のように定義されています。
①穀物類を原料とする
②麦芽の酵素にて糖化、酵母の働きで発酵
③蒸留液はアルコール度数94.8%以下に抑える
④木樽で3年以上熟成させる
⑤アイルランド、もしくは北アイルランドの倉庫にて熟成を行う
(4)カナディアンウイスキー
カナダで造られているウイスキーです。アメリカの禁酒法時代に国境を越えてカナダに逃れた作り手たちにより生産量を拡大しました(カナディアン・ウイスキーの始まり)。フレーバリングウイスキーとベースウイスキーの2タイプの原酒をブレンドしたブレンデッドウイスキーが主流で、比較的ライトな酒質が特徴です。飲みやすさの秘訣は、ライ麦を多く入れたコーンベースのウイスキーが多いことによります。 カナダではカナディアンウイスキーのことを「ライウイスキー」と呼ぶことも多いです。
他のウイスキーの定義と比べると条件が少ないため、カナディアンウイスキーは自由度の高いウイスキーなのです。
カナディアンクラブのハイラムウォーカー蒸留所、クラウンローヤルのクラウンローヤル蒸留所などがあります。
日本では知名度が低いですが、世界的にはブランド価値があります。クラウンローヤルは、世界の売上ランキングでも10位前後にランキングされています。
■カナディアンウイスキーの始まり
蒸溜酒の生産開始をカナディアンウイスキーの誕生と考えるのであれば、以下の説が有力ともいえます。
カナディアンウイスキーは17世紀後半の1688年(1650年?)にケベック州モントリオールで、ヌーベルフランス(ニューフランス、新フランス、フランスの植民地、カナダの一部を含むハドソン湾からメキシコ湾の間付近、)の初代監督官で、モントリオールの発展の礎を築いたといわれるアンタンダンジャンタロンが創業した「ブラッスリージュロワ(ビール醸造所)」に併設されていた蒸溜酒の装置により初めて蒸留酒を造ったのが始まりとされています。もともとビールを生産していた蒸留所にて、「ウイスキー輸入削減」を目的としてウイスキーを作り始めました。おそらく、この地域は、フランスの支配下にありましたが、イギリスの勢力が高まってきていたので、イギリスからの輸入をなくそうとしていたと推測できます。ちょうどこの頃は、イギリスとフランスとの対立である第2次百年戦争(1689年~1815年)の始まる時期であり、ヌーベルフランスが、イギリスからのスコッチウイスキー輸入をなくそうとしていたことは容易に想像できます。結果として、北米植民地戦争(1744年~1748年)、フレンチ・インディアン戦争(1754年~1763年)、七年戦争(1756年~1763年)の結果、ケベック州は、1603年に以来フランス植民地となっていましたが、フレンチ・インディアン戦争で1759年にイギリス軍に占領され、1763年のパリ条約でカナダ全体がイギリス領となりました。これにより、ニューフランス(ヌーベルフランス)と呼ばれていたフランスの植民地はなくなりました。歴史も複雑なので、この辺りにしておきます。
その後18世紀になり、1775年、アメリカ独立戦争が始まります。カナダはアメリカと同じくイギリスの植民地であった時代で、アメリカの独立に批判的な移民がカナダにやってきました。そして、アメリカからの移民が大量に余っていたライ麦や小麦を活用してウイスキー造りをするようになり、カナダでのウイスキー生産量は増えていきます。
さらにそこから100年以上あとになり、1920年〜1933年のアメリカ国内での禁酒法時代になります。アメリカ国内でお酒の製造、販売、輸送ができなくなったことにより、皮肉なことにカナディアンウイスキーの輸出量が増えていきます。禁酒法以前はアメリカで消費されるウイスキーはアイリッシュウイスキーや自国のものがメインでした。しかし、禁酒法によりアイリッシュウイスキーの輸入が禁止になり、アメリカでのウイスキー造りも禁止されてしまいました。カナディアンウイスキーも輸入は禁止でした。しかしアメリカに隣接しており密輸がしやすかったことから流通し始めます。その結果、カナディアンウイスキーを飲むアメリカ人が増えていきました。結果的に、アメリカ禁酒法時代の13年間はアメリカやアイリッシュウイスキーの産地に大打撃を与えるほど、カナディアンウイスキーは普及しました。カナディアンウイスキーは、「アメリカのウイスキー庫」と呼ばれるまでになるほど繁栄しました。このような歴史から、現在でもカナディアンウイスキーの輸出先としてアメリカは大きな割合を占めています。
禁酒法時代に生産量が増えたカナディアンウイスキーですが、1980年代以降にカナダ国内の厳しいアルコール制限やアメリカ人の趣向がジンなどの他のアルコールに向いたことにより、ウイスキー市場が若干衰退してしまいます。
衰退したことにより熟成期間を長く取れるようになるというメリットはありましたが、各企業の収益性を圧迫しました。そのためこの期間のうちに、カナダの蒸溜所は国外の蒸溜所に買収されることが続きました。例えば、アルバータ蒸溜所は、日本のビームサントリー社が持っています。しかしながら、最近はアメリカを中心とした輸出により売上も増えてきており、復活が期待されています。
■クランローヤル
クラウンローヤルが造られたのは1939年のこと。カナダのリカーメーカーである「シーグラム社」によって製造されました。シーグラム社は、1857年に「ジョセフ・E・シーグラム氏」がウォータールー蒸留所を造ったことで設立されました。
クラウンローヤルは、イギリス国王ジョージ6世夫妻が、イギリスの国王として初めてカナダを訪問することを記念し、国王への贈り物として造られました。
その後、シーグラム社の貴賓客用として少量しか生産されていませんでしたが、1964年から世界に輸出されるように。現在では、カナディアンウイスキーを代表する銘柄になりました。
2000年からはディアジア社の傘下となったシーグラム社の「ギムリ蒸溜所」が製造しています。
しかし、日本の輸入元であったキリンが2021年に販売を終了したため、今後入手しにくくなる可能性があるので要注意です。
ちなみにクラウンローヤルを語る上で「ラサール蒸溜所」というキーワードがよく出てきます。キリンのHPにも記載がありました。しかし、ラサール蒸溜所はクラウンローヤルの試作を行っていた場所で、実際に製造していたわけではありません。
クラウンローヤルの製法の特徴
イギリス国王ジョージ6世に献上されたクラウンローヤル。
バランスが良くライトな味わいで飲みやすいので、ウイスキー愛好家から初心者まで幅広く楽しめるカナディアンウイスキーです。
しかし、カナディアンウイスキーの一般的な製法である、ライ麦が主体のフレーバリングウイスキーとトウモロコシが主体のベースウイスキーをブレンドするという方法を行っていることは間違いなさそうです。
そして、試作段階では600種類以上の銘柄をブレンドし試行錯誤を繰り返しながら完成させたという記録が残っているので、徹底的にこだわって造られたと推測されます。
■シーグラム
有名なのは、キリンシーグラムです。今はありませんが、1972年にキリンビールとシーバスとシーグラムの3社で設立された会社です。2001年にペルノリカールがシーグラムを買収したことで、2002年にキリンシーグラムは消滅しました。キリンは、その後、キリンビール100%のキリンディスティラリーを設立しました。シーグラムは、ペルノリカールに吸収されました。
もう1社有名なのは、カナディアンクラブです。実は、サントリーの傘下です。一時は、「ハイラム・ウォーカー社」は発展を続けますが、1980年代にイギリスの大手酒類メーカーの「アライド社」と合併、2005年には「ペルノリカール社」が「アライド社」を買収します。これによって、ペルノリカール社の傘下にありましたが、ペルノリカール社が、「ハイラム・ウォーカー社」を売却、ジムビームで有名な「ビーム社」に譲渡されました。更にその後、2014年にサントリーホールディングス社が「ビーム社」を買収、かくして現在「ハイラム・ウォーカー蒸留所」はサントリーの子会社「ビームサントリー」の傘下となっています。
「クラウンローヤル」は、1939年にシーグラムによって設立されましたが、2000年以降はディアジオが所有するブレンデッド カナディアン ウイスキーブランドです。以前は、日本の輸入元であるキリンが、2021年に販売を終了しました。2024年現在は、入手が難しくなりつつあります。今後は、MHDが輸入をして頂けるのでしょうか?
■カナディアンクラブ(ハイラムウォーカー蒸溜所)
カナディアンクラブもペルノリカールの傘下にあります。ただ、日本への輸入はサントリーです。
ビジネスマンであったハイラム・ウォーカー氏が、、1856年にオンタリオ州ウインザーに、ハイラムウォーカー蒸留所を設立しました。アメリカでは禁酒運動が盛んに行われていたこともあり、ウォーカー氏は隣国のカナダに目をつけ、ウイスキーの製造を始めたのです。1920年代の禁酒法施行を考えれば、先見性が高く、ウォーカー氏によって作られたカナダ初のウイスキーであるクラブウイスキーは順調に販売本数を伸ばしました。
ウォーカーはライ麦由来の風味が心地よい爽快なタッチのウイスキーを誕生させます。当時のライウイスキーやバーボン、さらにはスコッチ、アイリッシュにもない新しい感覚のテイストは、アメリカ東部を中心にした紳士の社交場「ジェントルメンズクラブ」で洗練された品格のあるテイストとして人気を獲得しました。彼はそこから「クラブ・ウイスキー」と命名しました。カナディアンウイスキー初のブランド名を冠した製品となりました。この高い評価はカナダのウイスキー事業者へ多大な影響を与え、現在につづくカナディアンウイスキーが全体的に抱いている香味特性、爽快なタッチのテイストの確立へとつながったのです。しかし、クラブウイスキーの台頭に危惧したアメリカは、クラブウイスキーの名称をアメリカンウイスキーと区別できるように変更することを指示しました。その結果、クラブウイスキーは現在のカナディアンクラブに名前を変えることとなります。禁酒法の施行により、カナディアンクラブの人気と知名度は大きく高まり、禁酒法撤廃までのカナディアンクラブの歴史は、カナディアンウイスキーが発展した歴史そのものとなりました。現在は、ビーム社の買収とサントリーによるビーム社の買収を経て、サントリーがブランド権を握っています。
■カナディアンウイスキーの定義
カナディアンウイスキーと呼ばれるための定義は、カナダの法律で、以下の条件を満たしている必要があります。
①穀物を原料に、麦芽などで糖化、酵母などで発酵し、蒸留したもの
②カナダ国内で、700リットル以下の木樽で3年以上熟成させること
③アルコール度数40%以上で瓶詰めすること
④糖化・蒸溜・熟成はカナダ国内で行うこと
⑤カラメルまたはフレーバリングを添加してもよい。
特徴的なのは5番目のフレーバリングの添加が許されていることです。ここでいうフレーバリングとは、香味を付与するために許されているカナディアンウイスキー以外のスピリッツやワインなどのことです。使用量には制限がありますが、この基準があることで、さまざまなフレーバーのカナディアンウイスキーが生み出されています。クラウンローヤルでは、メープルやアップルフレーバーなどがあります。
具体的には9.09%までカナダ産以外のウイスキーを加えられるため、バーボンや、ワイン、ラムなどもブレンドが可能です。
カナディアンウイスキーの多くは2つの原酒をブレンドさせて造られています。
●ベースウイスキー
連続式蒸留器を使用しマイルドでクセが少ないのが特徴で、グレーンウイスキーに近いウイスキーです。ベースウイスキーは全てフレーバリングウイスキー用に使用されるため、原酒のまま世に出ることはありません。ベースウイスキー内のフレーバリングウイスキーの比率は高くても30%ほどで、ベースウイスキーが大半を占めています。
●フレーバリングウイスキー
ライ麦や大麦麦芽、トウモロコシを原料として造られるウイスキーで、しっかりした味が特徴です。
(5)ジャパニーズウイスキー
日本産。日本ウイスキーの父と呼ばれる竹鶴 政孝が1918年にスコットランドへ留学してウイスキー製造を学んだため、スコッチウイスキーの製造スタイルが踏襲されています。
■ジャパニーズウイスキーの始まり
●ウイスキーの伝来
「南蛮酒」と呼ばれる西洋の酒が日本に伝えられたのは、種子島への鉄砲伝来(1543年)やキリスト教宣教師の来訪(1549年)以降の室町時代とされます。この時の「南蛮酒」は、ポルトガルワインといわれています。1549年にイエズス会の宣教師である「フランシスコザビエル」が鹿児島に上陸した時の献上品の中に「ポルトガルワイン」が入っていたとの記載があります。その時に通訳を務めたジョアン・ツズ・ロドリゲスの『日本教会史』には、そのワインを「貴久に味わってもらった」と明記されています。この「貴久」とは、当時の薩摩の守護大名・戦国大名の「島津貴久」です。
日本へ初めてウイスキーが伝えられたのは、江戸時代末期の1853年にペリー提督が来航した、いわゆる「黒船来航(ペリー来航)」の時が最初とされています。この時スコッチウイスキーとアメリカンウイスキーが持ち込まれたと記録に残されており、交渉に当たった日本側の役人や通訳に、ウイスキーが振る舞われました。翌1854年の2度目の来航時には、第13代将軍、徳川家定にアメリカンウイスキー1樽が献上されたようです。この時、江戸幕府とアメリカとの間で結ばれたのが日米和親条約で、これによって250年続いた江戸幕府の鎖国政策は終わりを迎えました。
ウイスキー文化研究所代表でウイスキー評論家の土屋守氏は、この時のスコッチウイスキーは「スミスのグレンリベット」で、アメリカンウイスキーは「ミクターズ」と推定されています。
●ウイスキーの拡大
アメリカ初代総領事のタウンゼント・ハリス(1804~78)は、1856年に日米修好通商条約を結ぶために下田に来航した時にウイスキーを含む酒類を持ち込み、また当時中国にあった商社を通じて酒類を取り寄せ、交渉の過程で酒席を設けています。また欧米諸国に派遣された使節団や留学生らも洋酒に親しむようになっていました。日米通商条約の締結により1859年に開港した横浜や長崎などの外国人居留地では、ジャーディン・マセソン商会(前身は東インド会社、グラバー園のグラバー氏は元社員、現在はマンダリンオリエンタルホテルなどの営業)、デント商会(ジャーディン・マセソン商会のライバル企業、1866年の恐慌の影響で1867年倒産)といった大手商社のほか、大小さまざまな企業が進出し、ウイスキーを初め、これら日本に住む外国人のために輸入されていましたが、幕末から明治初期にかけて次第に珍しくて貴重な飲料として知られるようになり、輸入商社や薬種問屋でビールやブランデーなどとともに、日本人向けに輸入されるようになりました。
ウイスキーを扱った商社としてはベイカー商会、タサム商会、キャリエル商会、シュルツ・ライス商会、カルノー商会などが知られていますが、その後もエフ・レッツ商会、コードリエ商会をはじめとする多くの会社が洋酒の取扱いを行っています。これらの企業が現存しているかは不明ですが、その多くは撤退・廃業しているようです。また問屋では横浜の吉田豊吉が興した「尾張屋(不明)」などが有力であったとされます。現在の大手商社の「国分(現存、イーガンズやトマーティンなどの輸入元)」が食品販売業に進出したのは明治10年代からで、明治18年には磯野計が「明治屋(現存、アーリータイムズなどの輸入元)」を創業しています。明治以降、本場のウイスキーも輸入品として入ってきましたが、やがて舶来嗜好の流行にのった薬用葡萄酒などとともに、混成・イミテーションウイスキーともいえる国産洋酒が造られるようになっていきました。これは醸造アルコールに香料や砂糖を加えたもので、時には少量のスコッチを加える場合もありましたが、本来のウイスキーとはかけ離れたものでした。 輸入品の関税が不当に低く抑えられていたため(不平等条約)、安い輸入アルコールが原料として用いられたもので、洋酒類を模造する商売は利潤が高かったといいます。洋酒製造を手がけた会社としては、1871(明治4)年に薬種商の瀧口倉吉がおこした「甘泉堂」、生産量が多かった神崎三郎兵衛、蜂印甘味葡萄酒で有名な神谷伝兵衛(現オエノングループ、神谷バー)、大阪では橋本清三郎、小西儀助(現在のコニシボンド、小西儀助の甥にあたるのがのちに寿屋(サントリー)を立ち上げる鳥井信治郎)、横山助次郎(ビール製造、初のビールの輸出、「日の出ビール」を中国の上海に輸出)などの会社があり、明治初期から30年代にかけて、コンパウンド(調合)ウイスキー造りに参入する事業者はかなりの数に達した。当初は、酒屋さんはなかったので、輸入の洋酒類は、薬種商での取り扱いが多かったようです。
この時代の日本人で、ウイスキー造りにひとつの足跡を残した人物として、アドレナリンの発見で有名な薬学・生化学者の高峰譲吉(1854~1922)の名を挙げることができます。母方の実家が石川の酒造家であった高峰は、1890(明治23)年に元麹改良法の研究が認められてアメリカに招かれ、モルト(大麦麦芽)を用いずに麹を使ってトウモロコシからアルコールを造る方法の実験に成功した。また小麦のフスマを原料に元麹をつくり、ウイスキー造りを行う方法を開発しました。現地(イリノイ州)に法人を設立し生産する準備を進めたが、麦芽生産業者などの妨害により挫折してしまいました。この実用化が広がっていれば、バーボンを始めとするアメリカのウイスキー造りは、現在とは異なるものへ変化を遂げていた可能性もあります。高峰は1894(明治27)年に消化酵素であるタカジアスターゼを発見しました。これはデンプンを分解(糖化)する代表的なアミラーゼ(酵素)であり、グルコース、麦芽水飴、アルコールやウイスキー製造への利用のみならず、製パンや胃腸薬などに広く利用されることになりました(高峰は三共製薬の創業者)。
■ウイスキーの国内生産の動き
国内では長い歴史をもつ日本酒醸造元や、焼酎の蔵元が広く存在していましたが、ここを基盤として明治以降、アルコール製造も産業化の道を進みました。1899(明治32)年に通商の改定条約実施の詔書が発布され(不平等条約の解消)、アルコールの輸入税が増加されたことと、1901(明治34)年に酒税が改定、酒精含有飲料税法が発布されたことで、模造洋酒製造者の採算は悪化し、安価な輸入アルコールに頼っていた中小の洋酒業者は撤退を余儀なくされてしまいました。
かわって台頭したのが、国産のアルコール蒸溜業者で、当初は大麦、トウモロコシ、サツマ芋などが原料に用いられましたが、やがて台湾産の切干甘藷(かんしょ、さつまいも)が安く手に入るようになり、これで大量の醸造アルコールが造られるようになりました。さらに日清・日露両戦争の頃に、台湾で盛んになった製糖事業で生じた廃糖蜜(モラセス)から生産される醸造アルコールが輸入され、国内製造者は競争を強いられることになりますが、需要の拡大もあって産業として発展していきました。
日清戦争後の1895(明治28)年頃より、アルコール製造のためのイルゲス式連続式蒸溜機(当初は、ほぼイルゲス式)が日本へ輸入されており、1910(明治43)年に愛媛県宇和島で連続式蒸留機を使って、切干甘藷(かんしょ)から新式焼酎(ハイカラ焼酎)が造られています。代表的メーカーとしては、神谷伝兵衛が関わったアルコール工場が1900(明治33)年頃より北海道旭川(現オエノングループ)で稼働しました。さらに神谷酒造では1906(明治39)年にウイスキー造りも始めています(旭川工場はその後、合同酒精へと発展、現オエノングループ)。
大阪では摂津酒造(現宝ホールディングス)が1907(明治40)年にアルコール製造を開始、1911(明治44)年から自社製アルコールを使ったウイスキー造りを始めています。摂津酒造は薬種業者にもアルコールを販売、または委託を受けてウイスキーの製造などを行っており(寿屋の赤玉ポートワインやヘルメスウイスキーなども当初中身は摂津が造っていた)、1913(大正2)年には年間240石(約4万3200リットル)を造る最大手の会社に成長しています。当時、「東の神谷、西の摂津」と並び称されました。
1902(明治35)年に日英同盟が締結されて以降、本場のスコッチの輸入が増加し、一般大衆の酒類に対する知識も向上しました。本格的なウイスキーの製造を実現させたのは、明治40年代以降、甘味葡萄酒の「赤玉ポートワイン」(1907年発売)で成功をおさめた寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎(1879~1962)でした。
■鳥居信治郎(サントリー)と竹鶴政孝(ニッカウヰスキー)
●鳥居信治郎
1892年鳥居信治郎は、13歳で薬種問屋小西儀助商店(現・コニシ)へ丁稚奉公に出ました。この時に小西儀助商店で扱っていた洋酒についての知識を得たようです。
1899年20歳で大阪市西区靱中通(現・靱本町)で鳥井商店を起こしました。1906年鳥井商店を壽屋洋酒店に改称しました。スペイン人兄弟が大阪で経営していたセレース商会を買収し、スペイン産のワインを販売するが売れなかったため、日本人の口にあう甘味果実酒の試作を始めます。
1907年「赤玉ポートワイン」を発売しました。
1919年3月10日 大阪市西区七条通(現・港区海岸通)に「赤玉ポートワイン」の瓶詰専用工場となる築港工場を開設(現・サントリー大阪工場)。原料ワインをスペインやチリから輸入しました。
1921年大阪市東区住吉町(現・松屋町住吉)で株式会社壽屋を設立。大正後期には「赤玉ポートワイン」が国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長した。
●竹鶴政孝
・1923年(大正12年)6月 竹鶴政孝が壽屋に入社しました。ウイスキーの製造を学ぶために摂津酒造(TVマッサンでは住吉酒造)からスコットランドに派遣(1918~20)された竹鶴政孝(1894~1979)を1923年に会社に迎え入れ、京都にほど近い大阪・山崎の地に蒸留所を建設しました(現山崎蒸溜所)。
・1924年に竣工した山崎蒸溜所で造られたウイスキーは、1929年に「サントリーウ井スキー」、通称白札として発売されました。これが我が国初の本格ウイスキーであり、山崎蒸溜所の建築に着工した1923年は日本の「ウイスキー元年」とも言われています。
・戦前のウイスキー造りでは寿屋のほかに東京醸造、大日本果汁(現ニッカウヰスキー)が有名です。1924年に神奈川県藤沢市に創業した東京醸造(1955年撤退)はリキュール製造で知られましたが、1937年に国産第2号といわれる「Tomy’s Malt Whisky」(トミーモルトウ井スキー)を製造し、明治屋を通じて販売を行っていました。
・寿屋を退職した竹鶴政孝が1934(昭和9)年に興した大日本果汁(現ニッカウヰスキー)は、スコッチウイスキーの造りにならい、同様の風土を求めて北海道余市に工場を建設して、2年後よりウイスキーの生産を開始しました。1940(昭和15)年には第1号となる「ニッカウ井スキー」を発売しています。ウイスキーが熟成して販売できるまでの期間の経営を支えた「アップルワイン」は、1938年に誕生しています。
・また宝酒造の「キングウイスキー(現在も販売中)」も高い評価を得て、1943(昭和18)年には当時雑酒に分類されていたウイスキー初の等級付けで、サントリー、ニッカとともに本格ウイスキーの1級指定銘柄に認定されています。
独自の進化と深化を遂げた日本のウイスキー
第二次大戦の頃は海外からの洋酒輸入の停止や、酒類の公定価格設定、配給制度といった状況にありましたが、アルコール飲料は終戦直後から多くの人に求められ、様々な酒類が世の中に氾濫しました。闇取引や粗悪な酒類の横行によるアルコール中毒者が急増したのもこの時期で、「カストリ」、「バクダン」などと呼ばれた焼酎や、アルコールに香料や色付けをしただけの製品もウイスキーとして流通していました。また戦後は東洋醸造(現旭化成に吸収)、大黒葡萄酒(のちのメルシャン、現キリン)、本坊酒造(マルスウイスキー)など多くの企業がウイスキー事業に参入し、アルコール製造大手の協和醗酵(現キリングループ)などもウイスキーを扱うようになりました。
消費量は回復していくが、洋酒に対する公定価格が廃止されたのは1949(昭和24)年で、実際にウイスキーの自由販売が認められたのは翌1950年のことです。以後ウイスキー原酒の混和比率の低い3級ウイスキーを中心に自由競争時代へと突入します。中小の生産者の撤退期を経て、寿屋(現サントリー)、大黒葡萄酒(オーシヤン、現キリン)、大日本果汁(ニッカ、現アサヒ)が大きなシェアを占めるに至り、昭和30年代以降の高度経済成長時代には、3社の名を冠したバーが全国に急増、ウイスキーは大ブームとなりました。激しいシェア争いが続き、この頃「ウイスキー戦争」なる言葉も生まれています。
寿屋の『トリスを飲んでハワイに行こう』キャンペーン(1961年)など、マスメディアを利用して消費の拡大が図られたのは日本の特徴といえますが、家飲みと日本料理屋で和食にウイスキーを合わせる「二本箸作戦」、ウイスキーのボトルキープ、水割り文化の浸透など、日本独自の愉しみかたが次々と提案されていったのも、日本のウイスキーの大きな特徴です。オンザロックの流行には、冷蔵庫の普及により、家庭で手軽に氷が作られるようになった社会事情も影響しています。
1971(昭和46)年にはウイスキーの貿易が自由化され、数量、取引金額に制限なく輸入ができる時代となりました。1972(昭和47)年には、国際的な総合酒類メーカーのシーグラム社の資本参加で生まれたキリン・シーグラム社(現在のキリンディスティラリー)が事業に加わっています。高い関税率にもかかわらず高級志向でウイスキーの輸入量は増加し、翌1973年には特級ウイスキーの消費量が2級に追いつき、それ以降は逆転しました。寿屋から改称したサントリーは「オールド」で販売量世界一(1980年に年間約1,240万ケース出荷)を達成し、日本の代表的メーカーという立場を確立していきました。1976年のアメリカ建国200年祭の頃にはバーボンの輸入量が増加、1980年代には日本酒の地酒ブームと同じく、「地ウイスキー」が注目されることになりました。
その後ウイスキー類の消費量は1983年をピークに減少に転じ、乙類(本格)焼酎にも追い抜かれ、ビール、焼酎、日本酒に水をあけられてしまいました。課税数量でみても1983年度を頂点に、2008年度はピーク時の2割程度にまで消費量が落ち込みました。ひとつの原因は、1983年のウイスキー価格の引き上げです。1978年から1983年の増税により小売価格が約30%以上高騰したことで値ごろ感が失われました。また、ウイスキーの質の低下、酒税の安価であった焼酎やチューハイの登場によりウイスキーの人気離れが加速しました。
2007年ころまで下落の一途をたどり消費量はなんとピークの5分の1に。当時のウイスキー不人気は世界的な傾向で、1980年代と90年代はスコッチの生産者も減産を余儀なくされるなど、ほぼ絶滅危惧種入りの雰囲気さえありました。
しかし、サントリーは、2007年頃からハイボールで飲むことを進めるCMを制作しました。有名な「サントリー角」のCM「ウイスキーがお好きでしょ♪」のフレーズは、今でも多くの人が聞いたことがあると思います。そして、2008年頃から、静かにくすぶっていたシングルモルトブームや「ハイボール」ブームなどで再びウイスキー需要が高まり、奇跡的なV字回復を果たしています。2014年9月からはNHKの連続テレビ小説『マッサン』の影響もあり、日本におけるウイスキー市場は空前の活況を呈しています。
一方、シングルモルトなどの高級ウイスキーも世界的に好調で、こちらは先の減産がたたって深刻な原酒不足を起こしました。品薄になった国産シングルモルトの買い占めが始まり、エイジ記載の国産シングルモルトが相次いで販売終了を迎えるという事態になりました。ウイスキーにとっては天国から地獄、そして急回復しすぎで困るという、ジェットコースターのような時代です。
ウイスキー業界のグローバル展開
世界的な貿易自由化の流れに沿って、1989年の大幅酒税法改正(級別制度も廃止)により酒税の大幅変更が実施されたことで、本場のスコッチなどの輸入品がより身近となりました。大部分の製品はブレンデッドウイスキーですが、シングルモルトにも目が向けられるようになり、味わいや個性とともに、その造りや歴史に関心を寄せ、愉しむ人々が増え続けています。
日本のサントリー、ニッカ、宝酒造、キリンといった大手メーカーは、それぞれ海外の蒸留所のオーナーにもなっていますが、国籍や酒類といった枠を越えて多分野で活動する巨大企業が世界中で多く誕生していて、ウイスキー製造者の合理化や統合、国際化はこれからも、ますます盛んになっていくと思われます。ジャパニーズウイスキーに関しては2000年以降、海外のスピリッツコンテストで優秀な成績を収めており、世界的な認知度と評価の高まりを見せています。
またベンチャーウイスキー(会社名、イチローズモルト)が埼玉県秩父市に蒸留所を建設し、2008年から生産を始めたことも大きな話題となりました。さらに2014年にはサントリーがアメリカのビーム社を1兆7000億円で買収し、大きなニュースとなりました。その結果ビームサントリー社が誕生し、サントリーは、ディアジオ(英)やペルノリカール(仏)と並ぶ、世界有数のプレミアムスピリッツメーカーとなっています。
さらに世界的なクラフトウイスキー、クラフト蒸留所ブームを受けて、日本国内にも2016年頃から相次いでクラフト蒸留所が誕生し、空前のウイスキーブームに沸いています。現在、計画段階のものも入れると、日本のクラフト蒸留所は30近くになっています。
今まさに、日本は空前のウイスキーブーム、クラフト蒸留所ブームに沸いているといっても過言ではない状況です。
25年間(1983~2008)の低迷からの回復
数字の上でも、それは表れています。ジャパニーズウイスキーは戦後の経済成長とともに消費量は右肩上がりに成長してきました。1980年にサントリーオールドが1240万ケース(1ケースは12本)を売上げ、単独銘柄としては世界一を記録し、1983年度には、ウイスキーの課税数量、つまり国内消費量が約38万キロリットルと、ピークを迎えました。これは国税庁が発表する統計数字で、当時はウイスキー類としてウイスキーとブランデーは一緒でしたが、9割以上はウイスキーの出荷量です。
それが、この年をピークに下がり続けることになります。1989年の大幅酒税法改正(級別制度も廃止)の年には、早くも23万キロ台(ピーク時の約60%)まで落ち込み、その後もバブル崩壊によって坂道を転げ落ちるように、ウイスキーの消費量は落ちていきました。21世紀を迎えた2001年には11万キロ台(ピーク時の約30%)、そして2008年にはピーク時の約20%の7万5000キロリットルほどまでにウイスキーの消費量は減少してしました。まさに、天国と地獄です。
1983年のピークから2008年までの25年間続いたウイスキーのダウントレンドの間には、バブル崩壊と金融ショック、そして日本酒やワインのブーム、さらに乙類焼酎(本格焼酎)のブームもありました。消費者の嗜好が多様化するなかで、戦後の経済成長とともに歩んできたウイスキーが、そうした変化に対応できなかったということなのかも知れません。
ジャパニーズウイスキーブームの到来
しかし2008年で底を打ったあと、ウイスキーは再び上昇気運に転じています。2013年には10万キロを超え、10年経った2018年にはピーク時の半分近くの17万キロリットルまで回復しました。そして現在の空前のジャパニーズウイスキーブームです。
これは国内消費量だけでなく、海外輸出の統計を見ても顕著だ。国税庁が毎年発表している輸出統計を見ると、10年前のウイスキー輸出金額が17億円だったのに対し、2020年は年間271億と、約16倍となっています。この年初めて清酒を抜いて日本産酒類として、ウイスキーが第1位に躍り出ました。ちなみに同じ蒸留酒である焼酎は、わずか12億円と、ウイスキーの約20分の1ほどです。全世界がコロナ禍の中にあったことを考えると、この271億円という数字は驚異的な数字ですが、勢いは止まらず、2021年も1月から8月までの集計で340億に達していて、このままだと年間500億円に迫る勢いです。これはジャパニーズウイスキー人気が、海外で高まり続けているという証拠でもあります。
クラフトブーム(少量生産、小さな蒸溜所、こだわり)
この4〜5年で急激に蒸留所が増えた理由、ジャパニーズ人気、クラフトブームが到来した理由についてふれてみます。
ジャパニーズクラフトの歴史は、ベンチャーウイスキーの秩父蒸溜所に始まると言っていいです。肥土伊知郎が同社を立ち上げたのが2004年で、07年に埼玉県秩父市のみどりが丘工業団地内に土地を取得し、秩父蒸溜所を創業しました。実際に製造免許が下り、生産開始となったのは翌08年の2月です。まさに、日本のウイスキーのどん底の時代です。しかしウイスキー消費の上昇気運に乗り、あっという間に急成長を遂げました。
実はクラフトウイスキー、クラフト蒸留所という言葉が使われ始めたのは、2013年以降のことで、秩父が創業した頃は、そんな言い方はまだ定着していませんでした。これはジャパニーズではないですが、スコッチのキルホーマン蒸留所が2005年にアイラ島に創業した時、クラフトではなくマイクロディスティラリーと言われました。単に極小規模だから、マイクロです。では、いつ頃からクラフトという言葉が使われ出したのだろうか。それにはスコッチを見る必要があります。
■スコッチウイスキーの回復
スコッチは1970年代後半をピークに、ジャパニーズと同じように大低迷期を経験しました。その間に蒸留所の統廃合、企業買収・合併の嵐が吹き荒れましたが、ミレニアム(2000年)を底に、日本より早くウイスキー出荷量が上昇に転じました。しかし、業界全体では大規模蒸留所の寡占状態が続き、キルホーマン以外にマイクロ蒸留所の参入するチャンスはないと考えられていました。
新規参入を阻む最大のネックは、スコッチには容量2000リットル(正確には400ガロン、約1800リットル)以下のスチルを認めないという不文律が存在したことです。今では最低2000リットルというのは理に適っている数字だが、もっと小規模でやりたいというクラフト蒸留所にとっては、死活問題です。そこで2010年に「スコッチ・クラフト・ディスティラリー・アソシエーション」が組織され、この2000リットルの撤廃に向け、ロビー活動が開始されました。関税当局が約200年近く言い続けてきた、その不文律に終止符を打ったのが2012年で、翌13年から続々とスコッチにクラフト蒸留所が誕生しました。その数、現在までに約60です。
同じことは、隣のアイルランドでも起きています。2014年頃まで、アイリッシュには北のブッシュミルズと南の新ミドルトン、そしてクーリー、キルベガンの4つの蒸留所しかなかったが、現在では40近くにまで増えています。そして、その全世界的なクラフトの波が日本にやってきたのが、2015〜16年頃のことです。その嚆矢(こうし)となったのが厚岸やマルス津貫(つぬき)、そして安積(あさか)、ガイアフロー静岡などです。ベンチャーウイスキー秩父に遅れること、7~8年です。その後のジャパニーズクラフトの勢いは、今さら言及する必要もない状況です。
■アメリカンシングルモルトの登場
世界的なクラフトウイスキーブームには、ひとつ大きな特徴があります。それは多くの蒸留所がシングルモルトを造ろうとしていることです。今日のクラフトブームの先駆けとなったのはアメリカのクラフトムーブメントで、現在アメリカには「クラフト」と呼べる蒸留所が2000ヵ所くらいあると言われますが、当初は多くのクラフトでバーボンやコーン、ライウイスキーを造っていました。しかし現在アメリカで主流になっているのは、シングルモルトを造るクラフト蒸留所です。
アメリカンの定義でモルトウイスキーというのはありますが、必ずしもシングルモルトについては定義されていません。モルトウイスキーはスコッチやアイリッシュ、ジャパニーズと違って、アメリカの定義では原料に51%以上のモルト(麦芽)を使えばいいことになっています。他の国のモルトウイスキーが麦芽100%なのとは大違いです。これでは麦芽100%で造ろうと思っているクラフトにとって不利になります。そこで現在アメリカでは新たにシングルモルトの定義策定に向け動いています。
それ以外の国々のクラフトムーブメントを牽引しているのも、やはり、同様に何といってもシングルモルトです。1990年代半ばからミレニアム(2000年)にかけて、ブレンデッドに代わる酒として、シングルモルトが登場しなかったら、今日のクラフトウイスキーブーム、クラフト蒸留所人気はなかったかもしれません。それ以前のように、ブレンデッドのみが市場を席巻する状態だったら、クラフトは登場することはなかったでしょう。なぜならば小資本で、ブレンデッド事業に参入することは不可能だからです。
■環境配慮とツーリズム、地方活性がキーポイント
ウイスキーは画一性から多様性を求めて、必然的にシングルモルトという世界に行き着きました。シングルモルトがなかったら、今日のような世界規模のウイスキーブーム、とりわけクラフトブームはなかったでしょう。20年前と比べて、ますます情報化社会が加速して、人々のライフスタイルも嗜好も多様化しました。世界中どこにいても、今では瞬時に蒸留所の情報にアクセスできますし、ボトルも買えます。どんな人里離れた辺鄙な場所に蒸留所を建てたとしても、それがデメリットになることはありませんし、ネットを通して、どこにいてもボトルが買えるようになっています。かつての消費地に近い、大都市圏周辺が有利という常識は、現在の情報化社会、クラフトムーブメントでは、まったく通用しません。
それに伴って、ウイスキー造りの技術革新、地球環境に配慮したSDGs(持続可能か開発目標)、サステナビリティ(持続可能性)への取り組みも、これからのクラフトウイスキーのキーワードとなってくるでしょう。さらに現在のクラフトブームにはもうひとつ、地方経済活性化、蒸留所ツーリズムの可能性も大いに指摘されています。日本酒ツーリズムやワインツーリズムはありますが、日本酒もワインも季節生産であり、通年生産しているわけではありません。しかし、ウイスキーは年中生産はしており、蒸溜所は稼働しています。昨今、ウイスキーが関係するイベント、蒸溜所見学、現地でしか購入できない限定品など非常に多くなっています。
さらに言うと醸造のプロセスは外からは見えづらいです。どこも同じと言ってしまえば、それまでです。ただ、ウイスキーは通年、生産の現場を見ることができるし、蒸留所はどれひとつとして同じものはありません。そして人材雇用も、さらに原料の生産者も含めて、多くの人と、地場産業がウイスキー造りに関わってきます。クラフト蒸留所ブーム、クラフトウイスキー人気というのは日本に限らず、そうした世界規模のトレンドと密接に関わっています。